超越という病(超越への意志)

超越という病

−人間はなぜ立ち上がったのか?

 人間はサルから分かれて立ち上がったが、理由ははっきりとわかってはいない。しかしこのことが、人間がサルや他の動物とまったく違う歩みを始めた出発点である。

 浄土真宗大谷派の優れた学者だった曽我量深師は「人間が立ち上がったのは空・天を目指したからだ」と語っていた。「空・天」とは現実を超えたもので、空を見上げた時に、自分の現実を超えたものを感じ、想像したのだ。

 そのとき、自分の現実を超えたものが、いま・ここの現実よりもリアルで重要なものになった。それゆえ、人間は現状に決して心の底から満足できないのである。何かの願いが実現しても、一時的に満足してもすぐに色あせたものになるのである。ある人は長年の夢であったマイホームが完成し、その家の畳に横たわったときに、むなしくなってしまったという。私たちの願いはかなっても、かなわなくても、現実になったとき空しいものとなる。

 自分の現実に満足できず、現実を超えたものを目指す「超越への志向」というものが人間の魂、DNAに埋め込まれているのである。

 

 文明や文化を作り上げたのは、人間の超越志向である。エジプトのピラミッドを作り上げたのは超越志向である。ピラミッドは王が民衆に命令し、酷使して作られたと考えられてきたが、いまでは民衆が自主的に作り上げたと言われている。それは民衆の超越志向を満足させるのがピラミッドだったからである。

司馬遼太郎氏は『街道をゆく』のなかで、ある作家の体験談を語っていた。その作家は戦前の中国の港で、沖中士たちをまとめる監督官の職を得た。沖中士の仕事は船の積み荷を人力で上げ下ろしする過酷なものであった。また給料もわずかしかなかった。しばらくした時、一人の老人の沖中士がまったく働かずにいることに気づいた。ところが他の沖中士たちはそれを認め、しかもごちそうを食べさせていた。民主主義的な考えから、「おまえはなぜ働かないんだ、おまえも働け」と作家は老人を殴った。すると沖中士たちから袋叩きにされたということだった。

この老人は沖中士たちにとって、希望だった。悲惨な状況のなか、現状を超えたそうでない者がいるということが救いとなっていた。沖中士たちの願いが目に見えるものとして実現していたのである。王や貴族が生まれてきたのは、富や権力が偏っただけでなく、それが民衆から望まれたからである。現実が貧しく、苦しいほど貧富の格差は大きくなる。

 

人類の超越志向が生み出したのが宗教であり、そのなかで長い間満足されてきた。宗教の初めはアニミズムであったと言われている。人間の力を超えた自然や世界との同一性を感じ、自分を超えた存在と交流して一体となることで、満足していた。それが自然や世界と切り離された自己が生まれたとき、呪術によって自然や世界に働きかけるシャーマニズムに変わった。自然と別なものとして向き合ったとき、神や天の観念が生まれた。やがて人間や自然のレベルを超えた神や天が生まれた。神や天を生み出したのは私たちの中にある超越志向である。

そして、最終的に絶対的な存在としての神や仏が生まれた。

 死を知ることができるのは人間だけである。死は誰も避けることができないことであり、死に直面することによって、死後の生、死後の世界が問題になった。「死んだらどうなるのか」「死んだらどこへ行くのか」という疑問が生じ、死後を思い描くことによって私たちはこの世を超えた世界を手に入れることができた。

長い間人間の超越志向は、宗教という枠の中で解決されようとしてきた。人間を超えた存在を信じ、つながることで自分の存在も現実を超えたものとなる。また、この世の現実を超えた世界へと生まれゆくこともできた。

 

しかし、近代になると、「宗教の世俗化」というものが起きた。宗教の作り上げた世界が矮小化され、また無意味なものになった。「宗教の世俗化」というのは同時に社会の宗教化でもあった。宗教のなかに閉じ込められていた超越志向が社会全体に広がることであった。

科学の進歩と産業革命によって、人間の力を超えていると思われていた自然を人間の力で制圧することが始まった。宗教のなかに収まっていた超越の意思が社会のなかに初めて現れたのが、政治のなかであり、フランス革命である。社会制度は固定的で、変わることはなく、支配者が代わるだけだと考えられていた。フランス革命の意義は、王が滅び、 市民が社会の中心になったというだけでなく、社会は進歩するという思想を生み出したことである。

フランス革命のあと、ソビエトの社会主義革命をはじめ、大小さまざまな革命が起きた。

ナチスや日本帝国も革命とは無関係のようだが、それぞれの社会の進歩や変革をもとにしていたのである。政治のなかの進歩、超越志向は、毛沢東の文化大革命で頂点に達した。文化大革命は社会と人間を変革しようとしたものだが、その失敗で政治の中の超越志向は縮小した。カンボジアのポルポトの革命はその皮肉で悲劇的な表れだった。

 政治とともに超越の意志が現れたのが経済である。経済の発展によって、社会は豊かになり、すべての問題は解決すると期待された。革命の限界が見えた後、政治の大きな目的のひとつは経済成長である。どこの国の政権も経済問題が中心課題である。

 グローバル経済は新たな超越と期待され、国や民族を超えたものになると考えられた。インターネットも世界中を結び付け、国の枠を超えたものが生まれると予想された。

 しかし、グローバル経済は富の偏重と格差社会を拡大し、インターネットはバーチャルリアリティーのように現実を拡大することで人間の自我を拡大しただけである。

 

 「宗教の世俗化」によって死は除外された。死は無であり、死んだら何もないのだから考えてもむだなことである。生きることだけが意味があることになった。しかしそのことによって、私たちはこの世に、この人生の中に閉じ込められてしまった。「出口なし」となった。

 それゆえ、社会は絶えずよりよくなっていくものであり、「生きる意味は何か」「自己とは何か」という問いを抱えることになった。