この世、この人生、この自分に閉じ込められて

この世、この人生、この自分に閉じ込められて

 

宗教とは人間が他の動物と違い、ありのままの現実に満足できず、いつも現実を超えるものを求めていることから生まれたものです。他の動物は置かれた環境に従い、自分の条件を受け入れて生きていますが、人間は自分の現状に満足せず、いつもそれを超えようとするのです。この超越志向が人間の特徴であり、人間だけの病なのです。この超越志向を満足させるためにできたのが宗教でした。

 近代社会は宗教の世俗化により、社会は逆に宗教化したといえます。宗教化したということは、この社会において人類の超越志向の実現が目指されることになったということです。私たちの社会は絶えず発展し、改革することが求められているのです。その社会に生きる私たちも絶えざる成長と進歩、変化が求められています。

 

その私たちがもっとも恐れているのは死です。死とはこの自分、唯一の、かけがえのない自分が消滅してしまうことです。近代以前は、死そのものは恐怖の対象ではなく、通過点でした。近代以前の人が恐れたのは、死にざまと死後のことでした。死んだあとどうなるのか、死後の幸不幸を心配したのです。そして死後につながる死にざまの善し悪しを気にしたのです。私たちは死そのものを恐れています。

 近代以降、私たちにはこの世、この人生、この自分しかなくなったのです。この世に閉じ込められ、この人生に閉じ込められ、この自分に閉じ込められているのです。多重人格は唯一のこの自分が狭く息苦しいので、分裂してしまったのです。前世を信じる人は閉じ込められたこのじんせい、この自分に別な意味を見出したいのでしょう。私たちは生きる意味、自己の存在理由、人生の目的をいつも問題にしているのです。

 近代以前、私たちはこの世やあの世を流れるものであり、死ぬということはこの世からあの世へ、そして別なこの世へと流れ続けることでした。輪廻転生とはそういう流れをもとにした考えでしょう。それに対して私たちは流れでなく、かたまりです。この世、この人生、この自分の中で、固まって、身動きできないのです。自分というかたまりを抱え、意味づけするために四苦八苦しているのです。

 個人とか個人主義は自己がかたまりだということを基にして成り立つのです。自己は他と隔絶したかたまりで自立していると思って生きています。

 死を恐れ、無視し見ないようにして生きているのも、死が閉じ込められた私たちの有様を教えてくれるからです。私たちが死を問題にしても、それは死の手前だけです。死は無視して、死ぬまでのことだけを考え、語るのです。死んだあとのことを語ることはめったにありません。死んだあとが問題になるのは死んだ人のことを語るときです。現代の私たちにとって死んだ人は空気のようなものになってしまったのです。この世の中で見ることができなくなったのです。この世から出ることができないのですから。

 

私たちが死を恐れ、死にたくないのは、死によって無意味になるからです。近代以前は死ねば意味が変わるだけで、流れは続いていきました。死そのものは終わり、虚無ではなく、流れの転換点でした。「生とはなにか」「死とはなにか」という現代人の悩みとは縁がなかったのです。

 私は死を考えたとき、死にたくないという思いが強い。それは死は虚無であり、無意味になることであるからです。死に直面することは自己の無意味に直面することである。自分に閉じ込められ、自分というわくに縛られている私たちは自己の無意味というほど恐ろしいものはない。人生の中の様々な失敗、否定によっても、自己の無意味を感じるが、死ほど決定的なことはないのです。

 

 死が虚無であり、無意味であるのは、私たちがこの世に、この人生に、この自分にとじこめられているからです。死の間際まではなんとかコントローラできる(実際には生老病死の四苦と教えられているようにできない)が、死はどうすることもできない。自立した個人として自由であると思っていても、本当は閉じ込められた中での限定的な自由です。死に向き合うということは、自分が閉じ込められていることに気づくことであり、最終的には無意味、虚無しかないことを知ることです。そうでないなら、死について考えているだけで、死に向き合ってはいないのです。